指歌 〜 ゆびうた 〜

キーボードの話を、別の角度から。

「考える速度でタイプする」。
恐ろしく素早い、目にも止まらぬタイピングを想像しそうだけど、自分についていえば実際のところそれほど速いわけじゃない。文章を思いつき、変換するのに必要な読みにしつつ、さらにローマ字入力の組み合わせに展開し、変換が正しいかチェックし、正しくない部分を直し、確定する。その合間に、「あー、この表現、こっちの方がいいかも」などと思いついたりもする。ひとことで文章を書くといっても、これだけの工程があるので、「考える速度」でタイプしたところで、まあ、一般の人々よりは速いかもね、ぐらいのものだ。

ところで、長文を「打っている」と、ときどき、どうってことのない文字入力がうまくいかず引っかかることがある。しかも同じ部分を何度もミスしてしまったりする。「メニュー(menyu-)」と打ちたいのに、どうしても「めんy−(meny-)」になっちゃう、とか。そういうときは仕方がないので、「ニュ」の部分で「エヌワイユー」と意識的に打つ順番を考えながら打つことになる。

こんなとき、「リズムが狂うなあ」と思うんだけど、どうも、ここでいう「リズム」ってのは作業の流れという意味だけじゃなくて、文字通りキーを叩くリズムのことでもあるようだ。そんなことを最近意識するようになった。

そのことを意識しながらタイピングしようとすると、打つべき言葉に意識が集中できずに文字入力自体がガタガタになってしまって認識しにくいのだけれど、たいていの人はタイピング時の打鍵タイミングは一定じゃないだろう。タカタカタ、タカタカタ、と、ときどき楽譜で言うところの「休符」が入ったり、タカタカタカッタ、と、ちょっと「タメ」が入ったりしているはずだ(「休符」が入るのは、文節の区切りだったり、変換しようとスペースを打ったところだろう)。確定/改行時に「Enter」をスパーンッとぶっ叩くのも、まさに「一区切り」って感じだ。まあ、人それぞれの打鍵(タイピング)にクセがあってもおかしな話じゃない。(録音して検証してみたら面白いのかも知れない。)

鼻歌を歌うがごとく、打鍵でリズムを取って文章を打つ。これを「指歌」と呼んでみる。

そういえば、音楽を聴きながらタイピングしたり、dakaraを「だーかーらー」とつぶやきながらタイピングしたりすることはできるが、鼻歌交じりにタイピング、ってのは、私には無理だ。鼻歌が出るのは、たいていタイプとタイプの間で、文を考えて指は止まっている。練習すればタイピングwith鼻歌もできるような気はするが、それはもう隠し芸の範疇に属するような気がする。鼻歌とタイピングは脳の近い部分を使ってるんでしょうな。

話は飛ぶけれど、取材(特にインタビュー)中は、手元のパソコンをまったく見ずに、相手の発言などをタイプすることになる。相手の方を見ているのが礼儀だからだ。当然ミスタイプがあるが、それはあとから直す。下手に変換せず、ひらがなのまま、どんどん打ってしまう。自動変換で変な文節区切りになることもあるが、まあ、何とかなる。
ところがこういうとき、キーボードも画面も見ていないのにもかかわらず、ときどき「あ、間違えた」と分かってしまうことがある。実際には「間違えた」と思った時にはもうバックスペースを押している。どうやら、打つべき言葉に対して「指が正しく動いていない」ことを知覚しているらしい。上で「変換するのに必要な読みにしつつ、さらにローマ字入力の組み合わせに展開し」と書いたけれど、このとき脳では「どこにあるキーを打つのか」ではなく「指をどう動かすのか」という計画図が作られているのだと思う。

無意識が作ったこの計画図に従って指が動いた時に生まれる無意識のリズムが、「指歌」なのかも知れない。