使いこなすって、結局は一種のセンスを身につけるってことだよな(使いこなしの定義-2)

パソコンは何にでも使える万能ツール、というような説明がある。まあ、必要に応じたソフトウエアや周辺機器を用意すれば、という注釈はつくけれど。
そのためか、「パソコンを使いこなす」というと「あらゆることにパソコンを使う」面が強調されすぎているような気がする。「パソコンはユーザーを万能化するための道具である」という解釈。パソコンで「あれもできます、これもできます」という話を聞いたとき。自分自身が「あれもやれ、これもやれ」と言われているように感じ、「別にアレもコレもはやらない」という話になると、目の前にあるパソコンが異常に割高に感じられる。
そうじゃなくて。パソコンの汎用性はそれぞれのユーザーに固有の、多様なニーズに応えるためのものなのだと説明できないものか。そう考えることができれば、すべての機能や、プリインストールされたすべてのソフトを使うことが「使いこなす」ということではないと分かってもらいやすい気がする。その分、ユーザーの気も楽になるというものだ。別途、価格(プライス)と価値(バリュー)の議論が発生するけれど。
・・・・という長い前振りを受けて、本題。
実際にパソコンを使っているユーザーが「使いこなせていない」と感じるのは、「どう操作したら文字を枠で囲めるかわからない」といったときじゃないだろうか。つまり、自分のニーズ(やりたいこと)は分かっているのにそれをパソコンから引き出せないときだ。個別具体的な操作法を知るのは対症療法に過ぎない。そのときは良いけれど別の疑問が生じたときに同じ気分になるから。より深い解決法は「自分のニーズが分かっているときに、それをパソコンから引き出す勘(こうすればいいんじゃない?)」を養うことだろう。これはもう、ノウハウというより一種のセンス(勘、あるいは感覚)の世界だ。
センスといっても、生まれついたものである必要はない。実際、ヘビーユーザーと言われる人々は多かれ少なかれ、膨大な実作業(成功と失敗)を通じてこのセンスを身につけてきたはずだ。いわゆる「職人」と言われる人々が、日々の手仕事から技(個別のというより、一連の流れとしての)を身につけるのと似ている。
ヘビーユーザーを目指しているわけではないライトユーザーとか一般ユーザーと言われる人々に、同じだけ体験を繰り返せというのはナンセンス。それよりも、ヘビーユーザーの持つセンス(というのがあると仮定して)からエッセンスを抜き出してライトユーザー向けに説明できないか、ここ数年あれこれ思案している。このセンス、たぶん、パソコンに限らず、ケータイにもその他のデジタル機器にも、さらにはいわゆる「IT社会に生きる」という面にも多少は応用が利くんじゃないかと思うんだが。